水牛家族って? どんなところ? マンゴー・プロジェクト レイテ・グッズ オルモック物語 スタディ・ツアー 水牛家族通信 入会の方法



No.10 ティム君一家の暮らしが始まりました
No.11 トンナゴンの空は泣いていた
No.12 いよいよ土地探しも終盤に
No.13 わぁッ、びっくり!不発弾!?
No.14 小農家組合のリーダー、ヴェロニカさん
No.15 マニラに地主のタンさんを訪ねたけれど……
No.16 急転直下土1地がわたしたちのものに!
No.17 大きい夢に向って、小さい歩がはじまります
No.18 地すべりの村、希望と絶望が背中合わせ
No.19 <地域デビュー>をはたしました
No.20 軍の広報官とご対面
No.21 キャンプ・ドーンの司令部を訪ねる
No.22 フィリピン中で深刻な米不足
No.24 レイテ戦の記憶を無駄にしないために
No.25 ミセス・ティストンのお宅にホームステイ
No.26 ODAで得をするのはだれ?
No.27 ーご近所さんをクリスマス・パーティにー
No.28 破壊が進んだ環境の再生をめざして
No.29 子どもはみんなアーティスト
No.30 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争−その1
No.31 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争ーその2
No.32 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争ーその3


抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争−その1



レイテ島西海岸のオルモックから南に20キロほど行くと、バイバイという大きな町に行き当たる。スペイン占領時代からの交通の要所で、レイテ州と南レイテ州の州境いの町でもある。
 ここにVISCA(ビサヤ総合大学の略)と呼ばれる農業や漁業に始まって、農村が抱える社会問題全般を教える総合大学があり、わたしたち水牛家族も何かとお世話になっている。リボンガオに農園を作ることになってマンゴーの若木100本を植えることになった時も、土壌の作り方から苗木の選び方、1ヘクタールに100本のマンゴーをどのくらいの間隔で植えたらいいかといったことまで、この大学の専門家の知恵を借りた。

 先日、久しぶりにVISCAの研究室にベリータ・ベガ教授を訪ねた。彼女とは地域の女性問題や地方都市での売買春の問題など、同じ関心領域が重なるため、日頃から親しい間柄だ。
 研究室に入ると、「待ってました」とばかり、パソコンからプリント・アウトした6枚ほどのリポート用紙を渡された。なんでも、彼女の父親が戦争中の体験を書いたもので、「あなたなら、きっと興奮して読むと思うわ」と、言うのだった。

 わたしは早速リボンガオ農園に持ち帰り、目を通した。そしてほんとうに興奮した。日本軍がフィリピンに侵攻してきた時、彼女の父親のアミハンさんは高校3年生で、その後、VISCAの前身のバイバイ国立農業専門学校に進学した。その後、大学のキャンバスを日本軍が駐屯地として使用するようになった時、自分も抗日武装組織に志願したらしい。渡されたリポート自体は、今から10年ほど前の2000年に書かれたもので、その後、アミハンさんは亡くなったそうだ。

 レイテ戦については、交戦当事国であるアメリカと日本では実に多くの戦記類が出版されているが、戦争に巻き込まれ、さんざんな目に会ったレイテ島の住民についてはほとんど記録がない。それが残念で、わたしは、レイテ島の町や村を訪ねる時、できるだけ住民自身の経験を聞いたり、資料を集めたりするようにしている。そんなわたしの収集癖(?)を知っているので、ベリータさんも、父親の手記をわたしのためにプリント・アウトして待っていてくれたのだ。

 アミハンさんの手記には、これまであまり知られていない島の住民の抵抗運動の一端が、当時のナイーブな若者の目線で描かれている。戦争開始前から日本軍の情報将校が住民の中に混じり込み、地形や住民の動静を探っていた様子なども興味深い。そこで、ベリータ・ベガ教授に許可を得て、お父上のアミハンさんの体験記をここに収録させていただくことにした。長いものではないので、何回かに分けて紹介したい。

■太平洋戦争が始まった時、わたしは高校3年生だった。--ディオスダット・アミハン

1941年12月7日、日本軍が真珠湾を空爆したことを受け、アメリカは日本に宣戦布告した。ラジオ放送を通してそのことがBNAS=バイバイ国立農業専門学校(現VISCA=ビサヤ総合大学)のキャンバス内に伝わると、学生たちは勉強道具をカバンに詰め、家に帰る用意をした。私は、その時点では、戦争がやがて自分自身や自分の家族に直接関係することになるとは思ってもみなかった。

 1939年、BNASの校舎建設に携わったのはセブの建設会社アングサン建設だった。その建設業者が雇った作業員の中に、セブからきたジョンと呼ばれる日本人がいた。この日本人作業員は、他の作業員とちがっていつもショートパンツを履いていたので印象に残った。

 ジョンは午後の作業が終わると、いつもキャンバスの中の丘のあたりを歩き回っていたのが地域の人たちに目撃されている。ジョンはさらに、オトッド、ガバス、パンガスガンなど、キャンバス周囲の集落の中を歩き回っているところもたびたび目撃されていた。
 校舎の建設が終わると、作業員たちは全員セブに帰って行った。ジョンも姿を消した。すでに1940年になっていた。

 ジョンの消息は、その後、1942年に日本帝国軍がフィリピンを占領する時まで一切聞くことがなかった。しかし、驚いたことに、レイテ島バイバイに日本軍がやってきた時、その中に、陸軍大尉の軍服を着たジョンがいた。ジョンはバイバイの地理に精通していたので兵士を率いて地域を巡回するパトロール隊長になっていた。ジョンはもちろん気持ちのやさしい人間だったので、兵士たちが住民を手荒く扱うことを許さなかった。

 一方、フィリピン兵士の中で日本に降伏しない者たちは、ゲリラ組織をつくって日本軍に抵抗することになった。兵士や軍関係者だけでなく、一般市民もゲリラ活動に加わることになった。この地域で最大のゲリラ組織は、フィリピン警官隊将校であるミランダという人物によって組織された「西レイテ市民抵抗軍団」と呼ばれる組織だった。このゲリラ組織は、1917年型の銃や、手製の銃、長短さまざまな剣刀等で武装した約2000人の兵士で構成されていた。総司令部は「キャンプ・ランギット」と呼ばれ、オルモック背後の地域にあった。ミランダは自身を准将と称していた。わたしの兄モニコ・アミハンはこの「キャンプ・ランギット」で総司令部の書記官をしていたが、兄によると、ミランダ将軍はたいへん厳格な人物で、彼の言葉は兵士たちにとってはもちろんのこと、支配地域の住民にとっても、法律として守られるべきものとされていたそうだ。

 バイバイにも、ミランダ軍に属する大きなゲリラ組織があった。その組織の本拠地はバイバイ小学校に置かれていた。隊長は「ロッド・ラ・ロッド少佐」と呼ばれていた。そしてその配下には下士官や下級兵士がいた。下士官たちはいずれもニックネームで呼ばれていた。たとえば、ガバス出身のクラーロ・ゴルフェドは「キャプテン・ジェオフェリー」、ナーシン・ポサスは「ハンドカフ中尉」というふうに。
 わたしは「ロッド・ラ・ロッド少佐」がどこの出身か知らない。だが、彼は上流階級の出身か、あるいはスペイン系の混血(メスティーソ)ではないかと思われた。(続く) 

解説●抗日ゲリラ抜きにレイテ戦は語れない

 『レイテ戦記』の著者大岡昇平さんによると、「レイテ戦はゲリラの活動抜きには語れない」として、わざわざ1章を設けて、ゲリラについて記述している。その中に、次のような記述がある。
——各町村は弁護士、医師、小学校教諭など知識層の指導の下に、自警団を組織して警戒した。この際、協力したのが、武器を持った非降伏兵である。 
やがて旧米比軍将校がこの組織を指導し、1942年末までに各地に抗日ゲリラの中核ができた。北部レイテのバルトリン、ブラウエンのエルフェ、オルモックのミランダなどが有名な指導者である。それぞれ独自の徴募、給与、裁判を持った地下組織であった。兵器修理工場、病院もあった。エルフェのように戦前の州政府より公正な裁判制度を作り上げた者もいて、このゲリラ組織には、町村共同体自治、改革の理念が含まれていた。

 ふつう、ゲリラというと、一般市民の枠からはずれた無法者、アウト・ローというイメージだが、実際はそうではない。わたし自身、『レイテ戦記』のこの個所を読んで認識が変わった。弁護士、医師、学校の先生などを中心に、住民が自分たちの家族や財産を守るため、外敵(この場合は日本軍)に抵抗するために組織された自衛のための組織だった。行政は、表向き「親日」の立場を取らざるを得なかったのに対し、ゲリラ組織は武器をとって立ち上がった。独自に銀行や病院も持っていたというから驚く。大学生になったばかりのアミハン君も、正義感に燃えて日本軍に対するレジスタンス運動に参加したと思われる。(竹見)

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