水牛家族って? どんなところ? マンゴー・プロジェクト レイテ・グッズ オルモック物語 スタディ・ツアー 水牛家族通信 入会の方法



No.10 ティム君一家の暮らしが始まりました
No.11 トンナゴンの空は泣いていた
No.12 いよいよ土地探しも終盤に
No.13 わぁッ、びっくり!不発弾!?
No.14 小農家組合のリーダー、ヴェロニカさん
No.15 マニラに地主のタンさんを訪ねたけれど……
No.16 急転直下土1地がわたしたちのものに!
No.17 大きい夢に向って、小さい歩がはじまります
No.18 地すべりの村、希望と絶望が背中合わせ
No.19 <地域デビュー>をはたしました
No.20 軍の広報官とご対面
No.21 キャンプ・ドーンの司令部を訪ねる
No.22 フィリピン中で深刻な米不足
No.24 レイテ戦の記憶を無駄にしないために
No.25 ミセス・ティストンのお宅にホームステイ
No.26 ODAで得をするのはだれ?
No.27 ーご近所さんをクリスマス・パーティにー
No.28 破壊が進んだ環境の再生をめざして
No.29 子どもはみんなアーティスト
No.30 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争−その1
No.31 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争ーその2
No.32 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争ーその3


抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争−その2
ゲリラ・グループに加わり武器調達の旅へ

前号では、VISCA(ビサヤ総合大学)で社会学の教鞭をとるベリータ・ベガ教授の父ディオスタッド・アミハンさんが残した戦争中の手記を紹介した。今回もその続き。

■胸痛む従姉ロシータの処刑 
 ロッド・ラ・ロッド大佐のゲリラ・ユニットは、しばしばパトロール中の日本軍警備隊を待ち伏せして襲撃したが、肉薄した戦闘にはならなかった。というのも、その頃のゲリラの武器は古臭くて威力がなく、まともな戦闘はできなかったからだ。

 1942年の一時期、ゲリラ・ユニットはBNAS(現ビサヤ州立大学=VISCA)のキャンバス内の古い食堂に置かれていた。その後、日本軍がレイテ島に進駐してくると、ゲリラたちはカルビガア湾の入口の、墓地近くの海岸に移動した。そこである事件が起こった。

 オトッド村(現グアダルーペ)の住人レオン・エスグエラは、地元政府がガソリンを秘蔵していたBNAS内の貯蔵小屋に日本軍警備隊を案内した犯人と疑われ、ゲリラ・ユニットによって死刑を宣告された。そしてレオン・エスグエラは満月の夜に海岸へと引き出され、自分の墓穴を掘らされた後、音楽隊が演奏する「We Are So in Love in the Sprinngtaime」(*1)が流れる中、処刑人ベルドゲーロによって処刑された。

 レオン同様に、ロシータ・ピアモンテという女性とその娘(わたしはこの娘のことは知らなかったが)も処刑され、同じ場所に埋められた。ロシータの失敗は、セブで知り合った日本国籍の男性と結婚したことだ。いっしょに殺されたわずか3才だった無垢の魂(娘)は日本人の血を引いていた。ついでに言うと、ロシータ・ピアモンテはわたしの従姉で、わたしの母はオステキア・ピアモンテといった。

■日本軍に捕まり尋問される
 ゲリラグループがレイテ島バイバイで勢力を維持していた頃、ビサヤ州立大学長ホセ・クリサント氏によって設置されたOICスクール(*2)(校長デルフィン・D・ザマール)では、周辺地区の学生を広く受け入れていた。キリム、ガバス、パンサガン等々から、学生が集まってきていた。他の学校からも学生を受け入れたため、レイテ高校の女生徒も通学してきていた。わたしは戦争が始まった1941年12月7日には3年生だったが、日本軍がバイバイに進駐してきた1943年初頭には4年生になっていた。

 やがて、日本軍が占領して勢力を振い出し、学校は閉鎖になった。バイバイの町に駐屯していた日本軍部隊の司令官は「キャプテンYAO(八尾?)」と言った。わたしはこの名前を忘れることができない。なぜなら、このキャプテンYAOこそ、わたしと友人のヴァリン・ヴァレンゾーナを取り調べた人物だったからだ。

 それは1943年初めのことだった。わたしとヴァリン・ヴァレンゾーナは家に隠れているところを日本軍兵士によって捕まってしまった。そして、日本軍駐屯地に人質として連行され、ゲリラ活動をしていた兄のモニコ・P・アミハンとオウジェニオ・ペレスに降伏するよう呼びかけることを強要された。当時、兄もオウジェニオ・ペレスも、ミランダ将軍が指揮をとる「西レイテ市民抵抗軍団」に所属するゲリラ兵士だった。キャプテンYAOはふたりは24時間以内に日本軍に降伏すべきであるという告知を出して、日本軍兵士にその所在を探させていた。わたしの逮捕を知って、おなじくわたしの兄であるポテンシアーノや姉たちがモニコとオウジェニオ・ペレスのふたりを説得して降伏させた。

 ふたりが降伏したため、わたしたちはその日の午後、釈放された。駐屯地に監禁されている間、わたしたちはロープで縛られ、たびたび頬を殴られたが、それ以上の拷問は受けなかった。

■ゲリラ・グループに加わって東海岸へ
 バイバイ駐屯の日本軍は、町長が日本軍に協力的だったせいか、残虐行為は行わなかった。パテルノ・ヤン町長は外交手腕に長け、戦略と辛抱強さで日本軍に対応した。彼はマウンテテンに隠れ住むゲリラ兵士たちにも好かれていた。そして、ゲリラたちに日本軍駐屯地を襲撃しないよう注意を与えていた。タン町長は戦時下の行政手腕が評価され、1945年、戦争が終わった直後の占拠でも再び町長に選ばれた。バイバイ市民は、今ではすっかり忘れ去られているが、戦争中、バイバイを平穏に保ったタン町長を誇りに思うべきだと、わたし自身は思っている。

 話は戻るが、日本軍駐屯地は、一時、ビサヤ州立大学の中の古い食堂におかれていた。その古い食堂は現在の新しい食堂の前にあるが、1941年12月7日、戦争が始まった時、ジョンと呼ばれる日本人がセブの建設会社の一員として働いていたのは、その食堂の建設現場だった。

 1943年夏のはじめ、わたしはオルモック、アルブエラ、バイバイからやってきた男たちのグループに加わった。彼等はアメリカ海軍の潜水艦が運び込んだ新式の武器を取りに行くため、レイテ島東部のサンホセ、アブヨグに向かうところだった。オトッドから、ドミンゴ・アルバ、プラディオ・バルトリーニ、アルデ・フェルナンデスが同行し、徒歩でサンホセ、アブヨグに向かった。わたしたちは総勢28人で、19歳のわたしが最年少だった。

 わたしたちは朝早く出発した。そして、倒れた木々で敷き詰められているようなジャングルの道を歩き続けた。日本軍の占領時代、公道は日本軍兵士だけしか通行できなかったので、住民や一般の旅行者はこのジャングルの中の道を利用した。

 日が暮れた頃、わたしたちはアブヨグ平原が見晴らせる場所に到着した。すでに暗くなっていたので、わたしたちはバナナの枝や木々が生い茂る下で夜を過ごした。その夜の短い滞在中に、グループの中でちょっとしたいさかいが起こった。アルブエラ、オルモックからきた男たちがバイバイからきた男たちのちょっとした発言に腹を立てたのだが、そこはリーダーのエピファニオ・フェルナンデスがうまくおさめた。

 朝が来ると、わたしたちは大急ぎで平原の中の公道を突っ切った。というのも、その道は日本軍から容易に見つけられる位置にあったからだ。わたしたちは、午後中ジャングルの中の道を歩き通して、夕方ようやくカングレオン大佐の待つサンホセに到着した。(つづく)

大岡昇平著『レイテ戦記』には、日本軍に動員されて飛行場建設に向かう労働者を抗日ゲリラが襲撃したエピソードが書かれているが、日本軍協力者をゲリラが処刑した話を聞くのは初めてで衝撃的だ。日本軍が侵攻してきたために、フィリピン人同士が争わなければならず、結果として、グループ同士で武力衝突が起こったり、処刑まであったというのはほんとうに痛ましい。アミハン君の従姉ロシータさんは、日本国籍の男性と結婚したばかりにスパイと疑われ、3歳の娘とともに処刑されたようだ。戦争さえなければと、今更ながら、胸がつまる。
 
※1ゲリラが対日協力者の処刑にあたってセレナーデ風のラブソング「WeAreSoinLovein the Sprinngtaime」を演奏したのは、民族的な哀悼の意味があったと思われる。同じフィリピン人を殺すにしのびないが、日本軍に協力することは民族的裏切りと見なされ、処刑の対象になったようだ。

※2大学の閉鎖中も、非公式に一部の授業が行われていたようで、勉強をしたい学生たちがBNASのキャンパスに集まってきていたと思われる。OICが何の意味かは不明。今後、調べてみたい。
 
 

 



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