水牛家族って? どんなところ? マンゴー・プロジェクト レイテ・グッズ オルモック物語 スタディ・ツアー 水牛家族通信 入会の方法



No.10 ティム君一家の暮らしが始まりました
No.11 トンナゴンの空は泣いていた
No.12 いよいよ土地探しも終盤に
No.13 わぁッ、びっくり!不発弾!?
No.14 小農家組合のリーダー、ヴェロニカさん
No.15 マニラに地主のタンさんを訪ねたけれど……
No.16 急転直下土1地がわたしたちのものに!
No.17 大きい夢に向って、小さい歩がはじまります
No.18 地すべりの村、希望と絶望が背中合わせ
No.19 <地域デビュー>をはたしました
No.20 軍の広報官とご対面
No.21 キャンプ・ドーンの司令部を訪ねる
No.22 フィリピン中で深刻な米不足
No.24 レイテ戦の記憶を無駄にしないために
No.25 ミセス・ティストンのお宅にホームステイ
No.26 ODAで得をするのはだれ?
No.27 ーご近所さんをクリスマス・パーティにー
No.28 破壊が進んだ環境の再生をめざして
No.29 子どもはみんなアーティスト
No.30 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争−その1
No.31 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争ーその2
No.32 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争ーその3




破壊が進んだ環境の再生をめざして




新しい年2010年を迎え、早くも春の気配です。毎年、年末年始は日本で家族と過ごすようにしていますが、今年はどうもリボンガオの農園のことが気になって落ち着きません。というのも、前回お知らせしたご近所さんを招いてのクリスマス・パーティの時、土曜日で休日にもかかわらず、トンゴナン地熱発電所は稼働し続けていました。遠くの山には幾筋もの白い煙が立ち上り、汚染物質を放出し続けていた光景が忘れられないのです。

 空中に浮遊する汚染物質に接していると、慢性的に呼吸器が痛めつけられたり、皮膚に炎症を起こしたりすることはわかっています。わたしは日本に戻ってリフレッシュすることができても、常時リボンガオで暮らしているティム君一家やご近所さんやその子どもたち、それにトンゴナン地熱発電所で働いている人たちは空中に放出される有毒のガスを微量とはいえ吸い続けていると思うと、やはり気持ちが落ち着きません。なんとか早くトンゴナン地熱発電所による汚染問題に手を打ちたいと考えていた時、環境NGO、「地球の友・ジャパン」(FoE JAPAN)のフィリピン駐在研究員をしている波多江秀江さんからJICAを訪ねるというお誘いを受け、同行することにしました。

●JICA(国際協力銀行)の東京オフィスを初訪問
 日本のODAを担当するJICA(国際協力機構)は一昨年10月に組織替えをした話は聞いていましたが、そのオフィスを訪問するのは初めてです。当日は、去年のスタディ・ツァーで実際にトンゴナン地熱発電所を見てきた「練馬・歴史の旅に学ぶ会」の田場さんご夫婦が同行されました。「地球の友」のスタッフ2人も参加し、わたしたちは全部で6人になりました。

 JICAのオフィスを訪ねると、さっそく2階の小部屋に案内されました。テーブルをはさんでJICA側5人と、FoE、水牛家族が向き合って話が始まりました。波多江さんはすでにボホール島の感慨事業とネグロス島の地熱発電所についてJICA側に質問を出していて、その回答を聞くことから始まりました。ネグロス島の地熱発電所でも排水が流れ出して田畑を汚染したようで、わたしもJICA側がどのような対応をしたのか、その回答に期待しましたが、直接の担当者が出席しているわけではないので、「きちんと対応していると聞いている」といった程度のあいまいな答しか返ってきませんでした。ちょっとがっかりです。

 わたしの場合は事前に質問を出していないので、レイテ島で撮ってきた写真をJICAの人たちにも見てもらいながら、単刀直入に、トンゴナン地熱発電所の老朽化問題について話を切り出しました。トンゴナン地熱発電所は、稼働を始めてから30年近くが経ち、外まわりを見ただけでも老朽化は明らかで、そのためにトラブルが続出して環境に大きなダメージを与えていると思われます。地域住人への深刻な健康被害が懸念されていることでもあり、環境保全のためのリハビリテーション・プログラムが必要、それをJICAで実施すべきでは、と切り出しました。施設の傷み具合からすると、おそらく建設当時には予測しなかった問題も起こっているでしょう。

 田場さんご夫婦も、現地に足を運んでみたらいかにひどい破壊状況だったか、目で見た事実を口々に話してくれました。すると、その話に耳をかたむけていた東南アジア第一・大洋州部 東南アジア第三課長(フィリピン)の落合直之さんから、「わかりました。一度調査をしましょう」という返事が返ってきました。これはうれしいことでした。確かにリハビリ・プロジェクトを実施するためには調査が必要です。その調査がかけ声だけに終わらないようわたしたちは見守らなければなりませんが、ひとまず前向きの返事がもらえたので、「ヤッター!」という気分でした。まずは対話路線の第一歩をクリアしたというべきでしょうか。約束が実際に実行されるよう、これからも見守るつもりです。

●あの戦争では加害者だったはずなのに
 話し合いが終わって時計を見ると、午後1時を過ぎていました。約束の時間は午前11時から12時までということでしたから、お昼休み返上で2時間も話し合いが続いたことになります。省庁のお役人相手では異例のことだったかもしれません。でも、わたしとしては、JICAの人たちと対立するのではなく、よりよく仕事をしてもらいたくて話に行ったのですから、対等に話し合いができてほんとうによかったと思いました。

 それにしても、戦後60年以上が経過するうちに、日本のODAは相当変質したと思います。ODAは、もともと戦争で多大な被害を与えた地域に弁償をするというのが本来の目的でした。第二次大戦中、日本はアジア全域に軍隊を出し、さんざん荒しまわりました。人的被害、農産物への被害、家や財産、家畜への被害、川や道路などインフラに対する破壊、等々。本来は戦争が終わった時点で弁償しなければならないのに、日本は国家の全財産を戦争で使い果たしてしまったことを理由に現金での弁済を免除してもらい、主に役務や資材で弁済するという方法でフィリピン政府と協定を結びました。

しかも、賠償金として両国で合意した8億ドルのうち、実際の賠償は5億5000万ドル分の役務と資材で払うことにし、後の2億5000万ドル分は「借款」、つまり金融機関を通した融資というかたちになりました。ここから悪名高い「ブーメラン方式」へと変質したと思います。つまり、フィリピン政府が日本の政府系金融機関から借金をして、日本企業に工事を発注し、インフラ整備や農地整備をし、その利益は日本の企業が持ち帰るという方式です。この傾向は70年代半ば、5億5000万ドルの「賠償」支払いを終えた後、いっそう強まりました。

 さらに問題なのは、フィリピン政府が日本側から「借款」として借りた資金は、10年後、20年後には、利子をつけて返済しなければなりません。この変則的な賠償のために、日本政府から貸し付けを受けた借金がかさみ、財政が破綻に追い込まれている自治体まで出てきています。こうなると、もうまったく「賠償」の面影はありません。この方式では、戦争で家族を失い、田畑や家畜を失って無一物になった人びとに何ひとつ届くわけがありません。今もレイテ島の人たちは、「日本から戦争中のお詫びをしてもらったことはない」と言います。無理もありませんね。道路がセメント敷きになっても、戦争で夫や妻や子どもを失った人たちにはなんのなぐさめにもならないでしょう。アジアの国々への賠償は、本来、戦争被害者に謝罪するというものであったはずが、いつの間にか、政府間援助という大義名分で行われるブーメラン方式の儲け仕事にすり替わってしまいました。

 ODAに対しては、その原資はもともとわたしたちの税金なのですから、ただ政府まかせにするのではなく、納税者としてODAのあり方に責任を持ちたいものだと思います。
 

 





 




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