水牛家族って? どんなところ? マンゴー・プロジェクト レイテ・グッズ オルモック物語 スタディ・ツアー 水牛家族通信 入会の方法



No.10 ティム君一家の暮らしが始まりました
No.11 トンナゴンの空は泣いていた
No.12 いよいよ土地探しも終盤に
No.13 わぁッ、びっくり!不発弾!?
No.14 小農家組合のリーダー、ヴェロニカさん
No.15 マニラに地主のタンさんを訪ねたけれど……
No.16 急転直下土1地がわたしたちのものに!
No.17 大きい夢に向って、小さい歩がはじまります
No.18 地すべりの村、希望と絶望が背中合わせ
No.19 <地域デビュー>をはたしました
No.20 軍の広報官とご対面
No.21 キャンプ・ドーンの司令部を訪ねる
No.22 フィリピン中で深刻な米不足
No.24 レイテ戦の記憶を無駄にしないために
No.25 ミセス・ティストンのお宅にホームステイ
No.26 ODAで得をするのはだれ?
No.27 ーご近所さんをクリスマス・パーティにー
No.28 破壊が進んだ環境の再生をめざして
No.29 子どもはみんなアーティスト
No.30 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争−その1
No.31 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争ーその2
No.32 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争ーその3


抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争−その3

ついにゲリラのリーダー、カングレオン大佐に会う!

■見込み違いだった武器調達の旅
午後4時、わたしたちは、
ついにレイテ島南部マアシン出身のルパルト・カングレオン大佐に謁見した。
大佐は、ゲリラ活動に参加を決意して頬を輝かせている28人の若者を見て、
次のように言葉をかけた。
「若者たちよ、君たちの武器は<北>に用意してある。
本気でゲリラ活動に参加するなら、いったん引き返し、ただちに<北>に行くように」
ここで<北>はオルモックを指していた。
そこで、もう午後も遅いことから、わたしたちはさっそく大佐のもとを辞し、
いったんバイバイに戻るため森の中へと入って行った。
だれもが疲れていたが、国を愛する者たちは疲れたなどと言っていられなかった。
わたしはこのグループの最年少だったし、これまで長い徒歩旅行などを
経験したことがなかったこともあって、いつもこのキャラバンの最後尾だった。 


抗日ゲリラが<北>と暗号で呼んでいたオルモックには、
26師団立石大隊の一部が立てこもって抵抗し、
全滅したと伝えられる建物が今も廃墟となって残っている。


いよいよ日が落ちる直前に、わたしたちは森のはずれに小さな家を見つけた。
行ってみると、その家にはひとり住まいの年老いた女性がいた。
その晩わたしたちはその家に泊めてもらった。
朝が明けると、わたしたちは前の日と同じルートをバイバイ方面へと進んだ。
そして夜7時、わたしたちはようやく地元の村オトッドに到着した。
グループはいったん解散した。
次の行動は、自分たちのために用意してある武器を取りに<北>へ行くことであり、
その武器を使ってわれわれの敵である日本軍と戦うことだった。


残留兵の集合場所となったブガブガ山。
大本営がレイテ戦の戦闘放棄を宣言したため、
この山の麓に集結した1万余の兵士が未帰還となった。


■病気の兄に説得され、ゲリラ・グループを離脱   
わたしが家に着くと、いちばん上の兄が重病だと聞かされた。
そこでただちに兄の家へと向かった。
到着すると、聞かされた通り、兄は今にも死にそうな危篤状態だった。
兄はわたしを見るなり、こう言った。

「ディオス、よく来た。わたしはもう死ぬだろう。
ゲリラ活動をやめておくれ。危険なゲリラ活動はモニコだけでいい」  
次兄のモニコは、すでに<北>のゲリラ部隊に加わって日本軍と戦っていた。
そこでわたしは今にも死にそうな兄の希望を受け入れ、家に留まることにした。
こうしてわたしはゲリラ活動から引くことになった。

翌日、サンホセ、アブヨグ方面へいっしょに武器を取りに行ったわたしの仲間たちは、
<北>のゲリラ活動に参加するため出発していった。
プラディオ・バルトリーニ、アドリアーノ・フェルナンデスはゲリラとして戦争に参加し、
今ではフィリピン政府から退役軍人の処遇を受け、住居を与えられている。
ドミンゴ・アルバだけは、レイテ島北部で起こった「ブガブガの戦い」で戦死してしまった。
「ブガブガの戦い」はフィリピン軍と日本軍の間で戦われたもっとも激しい戦争だった。
フィリピン側は多くの死者を出したが、それは日本軍が優位な位置を確保して
フィリピン側を迎え撃ち、戦闘にのぞんだからだった。
フィリピン軍はアメリカ軍の支援にもかかわらず、
日本軍にブガブガ山を奪取されてしまった。(註1)

「ブガブガの戦い」におけるプラディオ・バルトリーニ、アドリアーノ・フェルナンデス、
ドミンゴ・アルバの3人の英雄的な戦いは、地元オトッドの若者たちの心に
これからも長く記憶され、語り継がれて行くにちがいない。(つづく)


エスピノサさんを取材していたら、
地元「中学生新聞」の記者たちも飛び入りで熱心に取材。

註1 「ブガブガの戦い」は1944~45年にかけて、レイテ島北部のブガブガ山周辺で行われた日本軍と米比軍(ユサッフェ)との戦い。この時点で残留していた日本兵は1万人以上と言われているが、その後帰還した将兵がいないため、実際の戦闘の様子はよくわかっていない。ふもとのブガブガ村の住民の話では、連合軍から村を離れるよう指示され、避難していたので、実情はよくわからないという。一部では、アメリカ軍による大々的な「ノーマンズランド作戦(あらかじめ地域住民を追い出して、空からはげしい絨毯爆撃を加える作戦)」が実施され、その作戦で日本兵はほとんど全滅したと伝えられている。

アミハン君の学友エスピノサさんに
かつての日本軍駐屯司令部を案内していただきました。

レイテ島バイバイに住むテディー・エスピノサさん(85才)は、大平洋戦争中、抗日戦争に参加した時のことをよく覚えています。故ディオスタッド・アミハンさんとは同じ教室で学んだと言います。今日は「アミハン君の戦争」に出て来たVISCA(現VSU=ビサヤ総合大学)の校内に現存する旧日本軍駐屯部隊の司令部として使われていた学生ホールに案内していただきました。
 エスピノサさんは、アメリカ極東陸軍(USAFFE=ユサッフェ)に16才で志願し、レイテ島各地で日本軍相手にはげしい戦闘を経験したそうで、当時の身分証明書を大切に持っています。証明書にはエスピノザさんが「アメリカ軍指揮下で1942年9月7日から1945年9月27日まで反日抵抗運動に参加したことを証明する」と書かれています。 
 この証明書をマニラの退役軍人省に持って行けばアメリカから補償を受けられるはずなのに、エスピノザさんは年齢が低かったとの理由でまだ1ペソも補償を受け取っていないそうです。16才で志願して命がけで地域防衛のために戦い、85才になった今も補償を受けられないというのはなんともお気の毒です。そこでロペスさんやティム君とも相談し、補償を受け取る交渉にマニラに行く旅費をカンパすることにしました。アメリカは、侵攻してきた日本軍を迎え撃つためにフィリピンの若者を戦争に動員したのですから、米比間の取り決めに従って、エスピノザさんにきちんと補償をすべきだと思います。

 



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