No.10 ティム君一家の暮らしが始まりました
No.11 トンナゴンの空は泣いていた
No.12 いよいよ土地探しも終盤に
No.13 わぁッ、びっくり!不発弾!?
No.14 小農家組合のリーダー、ヴェロニカさん
No.15 マニラに地主のタンさんを訪ねたけれど……
No.16 急転直下土1地がわたしたちのものに!
No.17 大きい夢に向って、小さい歩がはじまります
No.18 地すべりの村、希望と絶望が背中合わせ
No.19 <地域デビュー>をはたしました
No.20 軍の広報官とご対面
No.21 キャンプ・ドーンの司令部を訪ねる
No.22 フィリピン中で深刻な米不足
No.24 レイテ戦の記憶を無駄にしないために
No.25 ミセス・ティストンのお宅にホームステイ
No.26 ODAで得をするのはだれ?
No.27 ーご近所さんをクリスマス・パーティにー
No.28 破壊が進んだ環境の再生をめざして
No.29 子どもはみんなアーティスト
No.30 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争−その1
No.31 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争ーその2
No.32 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争ーその3




地すべりの村、希望と絶望が背中合わせ

2月に巨大な地すべりが発生した南レイテ州のギンサウゴン村やマガタス村はどうなっているでしょうか。3ヵ月ぶりに訪ねることになりました。今回の訪問先は、主に教会関係の小規模な避難先ということに決めました。というのも、大規模な避難キャンプには比較的支援が行きわたっているのですが(もちろん十分ではありませんが)、小規模なところは海外からの支援も届かず、取り残されていることも多いのです。

それと、水牛家族の活動のフォローアップの意味もこめて、マガタス村のひとたちの避難先を訪ね、10年前に会ったひとたちやその時におくった水牛の安否を尋ねるつもりです。今回の同行者はアレス牧師とお連れ合いのチャリートさん、バッグ・プロジェクトのロペスさんと娘さんのルビミンさん、それに5年ぶりにレイテを訪ねた難波さん。

前回は地すべりから間もないこともあって、緊急用の医薬品とビスケットを持っていきましたが、今回は長期化した避難生活に必要なものということで、米、砂糖、緑豆(小豆より小粒で各種料理に使う)などの食料と、金槌、のこぎり、懐中電灯など自分で家を補修できるような道具類を用意することになりました。これを150世帯分揃えることになり、懐中電灯や道具類は、アレス牧師がスーパーのマネージャーと交渉して、倉庫からストックを運び出してもらってようやく数を揃えることができました。

■進まない地すべりの復興
被災地域の中心・セントバーナード町に着くと、すぐにUCCP(キリスト教合同教会派)の教会へ。クルマに積んで行ったお米や豆を袋詰めして準備完了、受け取りにきたひとたちから被災したときの様子や現在の状況をうかがいました。いちばん土石流被害の大きかったギンサウゴン村の人たちは、幸い生き残ったものの、もう帰るべき場所がありません。代替の土地もなく、畑仕事ができないのが何よりつらいと話していました。農民にとって、たとえ借地であっても、耕す土地を失うことは生活そのものを失うことです。まだ移転先も決まらず、この先どうなるのか、人びとの不安が痛いほど伝わってきました。

 話を聞き終えて、次の被災地に向かいました。すでに午後2時をまわっています。途中、ギンサウゴンの地すべり現場が遠くに見えましたが、周囲は立ち入り禁止のままで、地元の自治体はなす術がないとのことでした。雨季は明けていても、危険であることにかわりないようです。

途中、支援の品々を届けるため、小さな家にちょっとだけ寄りました。ここは地すべりで家族を失い、そのショックから精神的なケアが必要な人たち10人ほどが、教会関係の人たちの手を借りながら暮らしています。身寄りもなく、すべてを失い、不安を抱えながら、ひとつ屋根の下で身を寄せ合って共同生活をしています。セブやマニラのような都会なら、おそらく路上生活を余儀なくされたでしょう。ここセントバーナードには、地域や教会のつながりが生きていてほんとうによかったと思いました。入り口ですぐに失礼しましたが、室内はこざっぱりと整い、暖かい雰囲気が感じられました。

■再会を喜び合う 
マガタス村にいちばん近い避難キャンプに着きました。もうすっかり日暮れてとっぷりと暗く、何も見えません。それでも、日本から持っていったマガタス村のひとたちの集合写真を懐中電灯で見てもらい、ここに写っているひとを知らないかと尋ねました。すると、なんという幸運でしょう、このひとなら知っているという男性が現れ、すぐに呼びに行ってくれました。

やがて、男性の知らせを受けたルピナ・レビオスさんが、マガタス教会(UCCP)の牧師さんにともなわれてやってきました。ルピナさんはわたしたちのことを覚えていて、「10年前の水牛贈呈式に出席しましたよ」というではありませんか! 思わず駆け寄って、再会をよろこび合いました

それから、わたしたちは近くの避難テントにいれてもらい、ほんの30分でしたが、旧交をあたためました。10年前、26才の若さで村長(地区長)をしていたロジャー・リコさんは、ミンダナオへ移ってしまったこと、マガタス村では地すべりの犠牲者はひとりも出なかったこと、でも、山が地割れしていて危険で村に帰れないこと、4頭の水牛のうち2頭が生存していることなどをルピナさんからうかがいました。

そこに若いアナスタシオ・パガランさんがやってきました。「水牛をありがとう!」とお礼を言われて一瞬戸惑いました。わたしたちは10年前、マガタス村にたった1頭の水牛をおくっただけで、パガランさんに会うのもはじめてだし、水牛をおくった覚えもありません。でも、パガランさんは、たしかに「水牛家族」から受け取ったといいます。想像するに、どうやらカナンガのビック・タガナス牧師が水牛プログラムを独自に発展させてくれていたのですね。そういえば、別の地域で生まれた仔牛を南レイテ州に連れて行ったという話をタガナス牧師がしていたのを思い出しました。

感激です! わたしたちの手を離れたところで、こうして水牛分配のプログラムが自立的に発展しているなんて! これこそがレイテ・カラバオ・ファミリーの自立の証明になりますね。

■喜びと悲しみが背中合わせ
マガタス村の人たちとせっかく出会ったのに、わたしたちはすぐに別れなければなりませんでした。というのも、これから4時間かけてガタガタとジープニーに揺られて島の反対側まで帰らなければならないのです。ルピナさんたちと再会を約して避難キャンプを後にしたのは、午後8時をすぎていました。 
 
帰りのジープニーの中で、今日一日に起こったことや会ったひとたちを思い浮かべました。今回の地すべりでは、土石でギンサウゴンの教会が埋まって友人の牧師を失いましたが、一方、マガタス村では、10年ぶりの再会を果たし、おまけに水牛分配のプログラムがレイテのメンバーの手でしっかり根付いていることを知りました。

レイテ島にいると、いつもきびしい環境にいるからでしょうか、喜びは山のように大きく、悲しみは谷のように深く感じます。人びとは、いつも生や死を身近なものとして暮らしているのです。生きるとは本来こんなものなのかもしれません。フィリピンでは、ほんとうに心を揺さぶられる経験を多くします。
ジープニーが七曲りの峠道にさしかかって右に左に大きく揺れます。窓から真っ暗な空を見上げると、空いっぱいに星が輝いていました。

 




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