水牛家族って? どんなところ? マンゴー・プロジェクト レイテ・グッズ オルモック物語 スタディ・ツアー 水牛家族通信 入会の方法



No.10 ティム君一家の暮らしが始まりました
No.11 トンナゴンの空は泣いていた
No.12 いよいよ土地探しも終盤に
No.13 わぁッ、びっくり!不発弾!?
No.14 小農家組合のリーダー、ヴェロニカさん
No.15 マニラに地主のタンさんを訪ねたけれど……
No.16 急転直下土1地がわたしたちのものに!
No.17 大きい夢に向って、小さい歩がはじまります
No.18 地すべりの村、希望と絶望が背中合わせ
No.19 <地域デビュー>をはたしました
No.20 軍の広報官とご対面
No.21 キャンプ・ドーンの司令部を訪ねる
No.22 フィリピン中で深刻な米不足
No.24 レイテ戦の記憶を無駄にしないために
No.25 ミセス・ティストンのお宅にホームステイ
No.26 ODAで得をするのはだれ?
No.27 ーご近所さんをクリスマス・パーティにー
No.28 破壊が進んだ環境の再生をめざして
No.29 子どもはみんなアーティスト
No.30 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争−その1
No.31 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争ーその2
No.32 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争ーその3




ミセス・ティストンのお宅にホームステイ


ミセス・ティストンが運営する女性と子どものためのセンターの前で。
子どもたちが笑顔で迎えてくれた。声をそろえて、「グッド・モーニング!ゲストのみなさん」

 今回はレイテ島東海岸のドラグという町の話です。ドラグはわたしたちの活動拠点がある西海岸オルモック市のちょうど反対側にあり、長距離バスを乗り継いで5~6時間もかかる場所にあります。
 今回、スタディ・ツァーのオプションで、急にこのドラグの町にひと晩だけ滞在することになりました。それというのも、レイテ・カラバオ・ファミリー運営委員のひとり、ミセス・ティストンが、彼女の自宅にスタディ・ツァーの一行を招待してくれたからです。ミセス・ティストンは六十代後半。2年前にお連れ合いを失くし、今はひとり暮らし。「ひとりで寂しいからぜひ寄って! 手料理をご馳走するわ」と言われて、ツァーの一行は大喜び。タクロバンのホテルに泊まる予定を急遽変更して、みんなでミセス・ティストンの住むドラグの町にジープニー(ツァー用にレンタルしたジープ型バス)を走らせました。

 着いたのは、夜の7時。もうあたりはすっかり暮れていました。ティストンさんのお宅は、大きなリビングと、広くてまあるいキッチン、寝室が3つ。ゆったりと過ごせるお宅です。キッチンの中央には、部屋に合わせて、大きなまあるいテーブルがあります。

 着いてみると、もうテーブルの上にはゆでたカモーテ(さつまいも)が大きなお皿の上に山のよう。さらに鶏肉や豚肉の煮込み、焼き魚、カラフルな野菜サラダ、いい香りのごはん、それに、バナナなど、多彩に並びました。もちろん、これはミセス・ティストンひとりの手作りではありません。フィリピンの家庭では、客人をもてなす時、近所のひとや親戚が総出で手伝います。この日も、ティストンさんの畑の世話をしている一家が、キッチンの脇の下ごしらえ場で大活躍してご馳走を作ってくれたのでした。


庭先で語り合うシングル3人組。夫を見送り、これからの自分の時間をどう使うか、
多いに話が盛り上がった?らしい。左からティストンさん、羽田さん、ロペスさん 

■社会参加型のアクティブな女性たち
 ティストンさんの暮らしぶりは、フィリピンでは中産階級の暮らしぶりといっていいでしょう。父親が学校の先生をしていたそうで、一族には教員や医師などが多く、見たところ裕福そうです。クリスチャンということもあって、自分たちだけよければいいとは考えていません。中産階級に属する自分たちは貧しい人びとのために働かなくてはならないと、当たり前のように言います。それに、生来ポジティブな性格なのでしょう、ティストンさんは、重病の夫を抱えている時でも、社会活動やボランティア活動を途絶えさせることなく続けていました。意志が強いというより、社会活動は当たり前と思っているようです。組織に入っての活動というより、あくまでも自分の考えでやるべきことを決めているようで、日本の多くの女性たちより、ずっと自由に活動しているように見えます。

 ティストンさんと初めて会ったのは、彼女がオルモックの隣町カナンガでハイスクールの校長をしていた時です。わたしたち水牛家族がバナナの茎の繊維やコゴン草から手漉きの紙を作っていることを知り、自分の生徒たちに見せたいので、学校へきてワークショップをやってほしいと申し入れがあったのです。わたしたちは、喜んでハイスクールに出かけました。その時の様子は通信の29号(97年4月発行)に載っています。生徒といっしょに目を輝かせてワークショップに参加していたのがミセス・ティストンです。

 彼女のキャリアが興味深いのは、私立学校の校長をやっていた後の活躍ぶりです。校長職をリタイアした後、今度は自分が所属する全フィリピン教会合同協議会(UCCP)国際部の事務局長のような役職を進んで引き受け、たびたび海外に出向いたり、マニラで多忙な日々を過ごしていたのでした。ところが、お連れ合いが健康をそこねたのを機に自分の町に戻り、自宅の前庭に椰子材や竹を使った風情のある建物を建て、そこで独自のカリキュラムの小学校と、幼稚園に通えない子どもたちのための保育所を始めました。同じ建物の一角には、貧しくて病院に行けない地域の女性たちのための助産所もあります。これらの施設はUCCPの運営ということになっていますが、資金的な苦労も含めて、ほとんどティストンさんひとりでかけまわって運営しているようです。地域の子どもたちがきちんと教育を受けられるように、貧しくても女性たちが安心して出産できるようにと、使命感のようなものを持っているに違いありません。

 そんな忙しい中で、さらにわたしたち水牛家族の活動にも関心を持ち、仲間入りしてきました。そして、運営委員会に出席するため、片道5~6時間の道のりも苦にせず、バスを乗り継いでオルモックまでやってくるのです。好奇心も旺盛で、そのエネルギーにはほんとうに感心します。

 日本では年齢とともに生き方が内向きになる場合が多いと思いますが、ここフィリピンでは、年齢とともに社会活動が広がっていく女性をよく見かけます。ティストンさんだけでなく、20年来の友人であるロペスさんも、60才をすぎてから牧師になる勉強を始め、数年後に見事認定試験に合格して、今では自分の地域の小さな教会の牧師さんになっています。ロペスさんも50代で夫を亡くし、その後から地域での社会活動が広がったように見えます。夫の死後、悲しみの時期を過ぎると、「さぁ、シングル・アゲインだわ。がんばらなくちゃ」と、みずからを励ましていました。もっとも、ロペスさん一家は大家族で、8人の娘や息子、ひとりの日本人の養子、25人(?)の孫に囲まれて暮らしていますから、年をとったからといって引っ込んでいられない状況です。

 フィリピン社会がさまざまな困難を抱えているにもかかわらず、どこかしら温かみがあり、人間的な包容力のようなものが感じられるのは、ミセス・ティストンやロペスさんのような女性たちがさまざまな場所で活動しているからではないでしょうか。それでも貧困状態から抜け出せないのは、社会の構造的な部分に原因があると言わざるを得ません。

■ドラグは南京攻略戦の精鋭部隊終焉の地だった
 ミセス・ティストンの話から、前置きが長くなってしまいました。
 ドラグの町の話をしたかったのは、この町は太平洋戦争の時、マッカーサー軍がくわだてた上陸大作戦の最重要地点とされた町で、駐留する日本軍ともども、一般住民が大きな被害をこうむった町だからです。ミセス・ティストンも、ロペスさんも、幼い頃、この町でレイテ戦を経験しました。町の教会は、今でも艦砲射撃を受けた当時のままの面影を残しているし、ロペスさんによると、艦砲射撃が始まって通っていた小学校が被災してやむなく休校になり、その後、焼け残った校舎が戦火で逃げ惑う人たちの避難所になったそうです。一度、わたしが日本から持っていった写真集に焼け残ったドラグの小学校の写真が載っているのを見て、「わっ、これ、わたしが通っていた小学校!」とロペスさんが言うので、ふたりで飛び上がるほどびっくりしたこともありました。今回、このドラグで、わたしたちは興味深い体験をしました。ドラグには戦争中第十六師団二十連隊が駐留していましたが、ひょんなことから戦争当時を知る人びとに出会い、当時の話を聞くことができました。特に80代の男性からは、日本軍がマッカーサーを迎え撃つため、大急ぎで飛行場建設にとりかかり、その工事に動員された時のはなしなども聞くことができました。その時のエピソードは次回ご報告します。おたのしみに!


ドラグはマッカーサー軍が上陸した最南の町。第二次大戦のメモリアルが各所に残る。
米軍が据えつけた巨大ヘルメットの前で近所の家族が憩いの時間を過ごしていた。


日本軍はドラグの町はずれに飛行場を作ろうとしたが、完成前に米軍が上陸し、未完成に終わった。
その村は今も「ランディング(滑走路)」と呼ばれている。

 




 




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