水牛家族って? どんなところ? マンゴー・プロジェクト レイテ・グッズ オルモック物語 スタディ・ツアー 水牛家族通信 入会の方法



No.10 ティム君一家の暮らしが始まりました
No.11 トンナゴンの空は泣いていた
No.12 いよいよ土地探しも終盤に
No.13 わぁッ、びっくり!不発弾!?
No.14 小農家組合のリーダー、ヴェロニカさん
No.15 マニラに地主のタンさんを訪ねたけれど……
No.16 急転直下土1地がわたしたちのものに!
No.17 大きい夢に向って、小さい歩がはじまります
No.18 地すべりの村、希望と絶望が背中合わせ
No.19 <地域デビュー>をはたしました
No.20 軍の広報官とご対面
No.21 キャンプ・ドーンの司令部を訪ねる
No.22 フィリピン中で深刻な米不足
No.24 レイテ戦の記憶を無駄にしないために
No.25 ミセス・ティストンのお宅にホームステイ
No.26 ODAで得をするのはだれ?
No.27 ーご近所さんをクリスマス・パーティにー
No.28 破壊が進んだ環境の再生をめざして
No.29 子どもはみんなアーティスト
No.30 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争−その1
No.31 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争ーその2
No.32 抗日ゲリラの歴史・アミハン君の戦争ーその3


キャンプ・ドーンの司令部を訪ねる

カナンガ町長の執務室での話し合いはひとまず無事に終わりましたが、それで用事がすんだわけではありません。わたしは他の村で起こっていることでも軍と話をしておきたいと思い、広報官の若者に、あなたの上官に合わせて欲しいと頼みました。

もう昼時になっていることもあって、広報官は困り顔。自分の上官はこの町にはいないし、アポイントがとってないと会えないなどと消極的です。でも、わたしは明後日には帰国のためセブに渡るので、ぜひ今日中に会いたいと粘りました。広報官は仕方がないといった表情で、携帯電話を取り出し、上官と話し始めました。
待つこと5分。広報官は携帯を切ると、
「上官は2時に司令部でお会いするそうです」と答えました。
エッ? 司令部? わたしはちょっとビビりました。わたしの考えでは、この町の駐屯部隊の上官に会いたいと言ったつもりだったのに、いきなり司令部に話が行くとは・・・。でも、考えて見ると、広報官というのは表向きの職務の名称で、実際の彼の仕事は住民の動向を探ったりする情報部員でしょう。とすれば、司令部直属というのは当然ともいえます。どうもだんだん軍の深みにこちらも入っていきそうです。
「では、2時に。でも、その前にいっしょに食事をしません?」
と、彼と彼のボディ・ガードを食事に誘いました。これからT村の人たちと水牛家族のスタッフと食事をするので、だったら、軍の広報官もいっしょに食事をするのがいいと思ったからです。


第8方面隊の指令部を訪ね、水牛家族の活動について説明する

■食事の時は敵味方なくひとつのテーブルで
わたしたちは総勢20人ほどで町の小さな食堂に行きました。掃討作戦をする側(軍)とされる側(村人)がいっしょに食事をするというのもどうかな、と思いましたが、まぁ、ここは水牛家族の昼食会ということで、双方とも納得してくれたようです。
T村にかぎらず、レイテ島の農民たちはほとんど昼食をとりません。というより、食べるべきものがないのです。せいぜい、ふかし芋か、バナナが食べられればいいところ。自分たちの土地を持つことができないために安定した農業ができず、いつも空腹を抱えています。

フィリピンの農村の実態は、都会だけを見ていてはわかりません。マニラやセブでは、マクドナルドやジョリビー(フィリピン資本のハンバーガー・チェーン店)はいつも満席で、メタボリック体型の人たちも増えてきていますが、一方で、農村や漁村の貧困はますます激しくなってきています。開発や外国資本による被害を農村がもろに受けていることが主な原因です。グローバリゼーションの影響は、フィリピンの農村にも深刻な影響を与えています。

そんなわけで、水牛家族では、会合のあるときには必ず食事かスナックを用意します。つまり「分かち合い」精神ですね。お腹がふくれれば気持ちもなごみ、みんなが満足。そこから困難な問題と取り組む意欲も出てこようというものです。
さて、食事が終わってT村の人たちに別れを告げ、いよいよ司令部に向かうことになりました。同行はアレス牧師とロペスさん、それにタカ(廣江君)とわたしの4人。軍の広報官がオートバイで道案内をしてくれます。
 目的地の司令部所在地はオルモックのキャンプ・ドーン。ここにはカナンガ駐屯部隊の親師団であるフィリピン国軍第8師団が駐屯しています。

キャンプ・ドーンといえば、大岡昇平著『レイテ戦記』にも出てくる、古くからある基地。米比合同軍が使っていましたが、日本の占領期、ここには日本陸軍のオルモック防衛隊司令部が置かれて島の西海岸を守る要になっていました。レイテ戦が始まると、東海岸から上陸したマッカーサー軍はたちまち日本軍を制圧して背後に迫りました。そこへある日、目の前のオルモック湾から、強力なアメリカ軍が上陸作戦を敢行します。島の東西から日本軍を挟み撃ちにする作戦でした。キャンプ・ドーンを占領していた日本軍防衛隊ははげしい戦闘によって基地から追い出され、生き残った兵士たちは島の北方へと押し上げられて行き、最後はカンギポットという山の周辺でほぼ全滅しました。そんな血生臭い歴史を持つ基地で、これから広報官の上官と対面です。

■オルモック湾を見据える旧日本軍の機関銃

キャンプ・ドーンは小高い丘の上にあり、アレス牧師の運転するジープニーはあえぎあえぎ登って行きます。ゲートに到着すると、門衛が立つ見張り用ボックスの前に、旧日本軍の錆びた機関銃がオルモック湾に向かって据えられていました。防衛隊が敗走する時にそのままにしていったものでしょう。レイテ島には、こうした日本軍の痕跡がまだまだ至るところに残されています。
 司令部の建物は、大きな木が枝を張った涼しそうな場所に立っていました。古い木造の平屋建てで、一見小学校の校舎のようです。どこか沖縄の米軍基地に似ているのは当然で、

フィリピンの国軍は創設以来、米軍の息のかかった軍隊だからでしょう。フィリピン国内の基地は、基地機能としても、東南アジア屈指のクラークやスービック基地を抱えるなど、沖縄米軍基地と並ぶ存在です。フィリピン国軍と米軍の結びつきは深く、装具も戦略も戦費もすべてがアメリカ持ちといっていいほどで、米軍は思うままにフィリピン国軍を動かし、手足のように使っています。
 日本の自衛隊もよく似ていますが、フィリピンと日本の大きな違いは、フィリピンの場合はアメリカから戦費をもらうけれど、日本の場合はアメリカに戦費を出しているといった点でしょうか。婉曲的に、日本はフィリピン国軍をも支援していることになるでしょう。いずれにしても、フィリピン国軍も自衛隊も、米軍再編によって今や共に米軍の指揮下にあり、演習や平和維持活動などを通して友軍関係を強めています。

 司令部の建物の中は、カナンガの町役場とは大違い。殺風景な上に、人が集まって生まれる喧騒もなく、妙に静かで、知らず知らず緊張感で体がこわばります。
うす暗い建物の奥の応接コーナーに通されると、そこには迷彩の戦闘服を着てブーツを履いた体格のいい将校らしき男性が座ってわたしたちを待っていてくれました。L大佐です。大佐というからには連隊長クラスということでしょうか。
 そこへもうひとり、今度は迷彩のTシャツ姿でいかにも精悍な顔つきの男性が入ってきました。A大佐と名乗りましたが、同じ大佐でもどうやらこちらが連隊長、L大佐が副官という感じで、話し合いはまずA大佐が口火を切って始まりました。

A大佐はわたしたちの自己紹介など意に介する風もなく、いきなりNGO(非政府組織)の批判を声高に始めました。よほど市民が嫌いで、わたしたちも何か軍に文句をつけにきたと思い込んでいるようです。
一体、何をそんなにいきり立っているのでしょうか。話を聞いてみると、A大佐が言うには、今フィリピン国内で大きな議論になっている左派系活動家の連続殺害事件をNGOは国軍の犯行だというけれど、あれは国軍の仕業ではなく、NPA(新人民軍)内部の殺し合い、または同系の組織である共産党やその支持者の内ゲバだというのです。

さぁ、弱りました。わたしも実は、水牛家族の基礎を共に築いたエディソン・ラポス牧師の殺害も、  号で紹介したサルバドールさんの狙撃事件も、国軍の下部組織の犯行だと思っています。アロヨ政権もしきりに内ゲバ説を流していますが、だったら警察はなぜ犯人を摘発しないのかと言いたいところですが、今はその話をしにきたのではないので返答に困りました。水牛家族も巻き込まれている左派系活動家の連続殺害について話すのであれば、それに関する資料も証拠も用意して話さなければいけないでしょう。でも今はその用意がありません。今ここでは、水牛家族の村々で起こっている駐留部隊の嫌がらせをやめてほしいという話をしたいのです。

そこでアレス牧師とわたしはカナンガ町長の執務室でやったように、またまた水牛家族の活動パネルを持ち出して小さな机の上にならべ、この20年間に水牛家族がやってきたことなどの説明を始めました。すると、L大佐の方は興味深そうに写真を手に取り、手漉きハガキに貼り絵をしているワークショップの写真に目を止めて、「ここに写っている子どもたちは日本の子どもたちか?」などと聞いてきます。子ども好きなのでしょう、すっかり目を細めて写真に見入っています。

■鬼大佐(失礼!)もやっぱり人間?

一方、写真パネルにもいっこうに興味を示さなかったA大佐ですが、アレス牧師がレイテ島ブラウエンで日本軍に捕まった少女のストーリィを描いた絵本『もうひとつのレイテ戦』を手渡すと、次第にA大佐の表情が変わってきました。実はこの絵本は、レメディアス・フェリアスさんという元「慰安婦」だった女性が自分の戦争中の体験を七十才過ぎてから描いたもので、わたしはその原画をひと目見てぜひ本にしたいと思い、出版を思い立ちました。
レイテ島では、過去の戦争についてほとんど記録が残されていません。たとえばレイテ戦については外国の軍隊である日米両軍の兵士の犠牲者数は一の単位までわかっているのに、レイテ島の住民の犠牲については、未だに正確な死者の数さえわかっていないのです。自分たちの歴史を持たないことは悲しいことなので、せめてわたしはレメディアスさんの原画を本にしてこの島の人たちに残したいと思い、もう10年も前のことですが、日本で出版社をやっている友人や英語・タガログ語に強い友人・知人にも協力してもらい、ようやく出版にこぎつけました。アレス牧師はこの本は自分たちレイテ島の住民にとって大事なものだと言って、今日の会見のような時に持ち歩いて人びとに手渡してくれているのです。

その絵本をパラパラとめくって見ていたA大佐が、やがて唐突に言いました。
「実は、わたしの義理の父は日本人でした」
わたしは、にわかにA大佐の言葉が信じられず、思わず聞き返しました。 
「えっ、あなたのお父上が日本人?」
「いえ、実の父ではなく、母が再婚した義理の父です」
わたしは、ああ、ここにもひとり、過去の戦争の余波でややこしい人生を送っているひとがいると、思わずA大佐の顔に見入りました。
                        (つづく)


 




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